私のお寺、明王寺。

御本尊は不動明王であります。

なんと、理源大師聖宝の御作と伝えられております。

すばらしい。

私の曽祖父が醍醐寺より普山する際に招来したお不動さまでございます。

そんなお不動さま。

顔は怒っております。

右手に剣、左手に縄をもっております。

言う事聞かない悪い子も

剣で悪の根源を断ち切り

縄でぐるぐる巻きにして、よい道へと

導くのであります。

背中に燃え上がるホノウは

悪いものを全部焼き祓ってくれます。

お不動さまを日本で流行らせたのは

他ならぬお大師さま(弘法大師空海上人)であります。

ちなみに、インドではお不動さまって

「だれでーすか?それ?オフドウサン?」

ってなくらいのもんだったらしい。

中国でも。

お大師さまの伝えた、密教。

密教に欠かせない護摩

護摩の本尊は(普通は)お不動さん。

それで、お大師さんの信仰の普及と共に

お不動さんもメジャーへの階段を登って行ったらしい。

(お稲荷さんも似たようなところありますね。)

歌舞伎なんかでお不動さんが出てくるようになって

爆発的な人気になりそれこそ不動の人気を得たそうな。

お不動さまはなぜ怒っているか?

と、(教義的には色々と説明はありますが、あえて)

自分なりに考えてみました。

何かの本に書いておりました。

昨今の若年層による凶悪な事件が多発しておりますが

ほとんどの場合その動機は短絡的で、思慮を欠いております。

なぜか?

畏敬 畏怖

という言葉が、現在の教育から抜け落ちているとの事。

畏れる。(おそれる)

恐れるではなく畏れる。

インフォシークで調べると

→神仏などを、人為の及ばないものとして敬い、身をつつしむ。

との事。

人を殺してはいけない。

のはなぜか?

以下、私の超個人的意見であります。

人権が~、法律が~、人の自由を奪って~

という人を殺してはいけない理由。理屈。

それも正しいとおもう。

けれど、(感覚的に言えば)それは畏れでなく恐れだとおもう。

恐れは否定できる。

人を殺す→死刑になる。(ならないとしても)→そんなの怖くない。だから何?。未成年だし。

と。

でも、畏れは否定できない。

畏れ敬うという思いは、自分の心に生まれるもの、もしくはあるものなので

それは否定のしようがないのであります。

おそれ敬うという事が心にあるという事は

善悪の判断を自分でやっているようで、

実は、自分の心にある、「畏れ敬うもの」の判断に従っているのであります。

日本中の小中学校の教室に

お不動さまをおまつりするってのはどうでしょうか?

畏敬の念というのは、もちろん優しいお顔をした

観音にもでもお地蔵さまにも抱く気持ちでありますが、

怒りの形相のお不動さまの方が

畏敬の念を持ちやすいのかもしれません。

皆に畏敬の念を持たせやすくする為に

お不動さまは怒っているのでは・・・

と考える次第です。

戦後教育の中で宗教分離政策がなされていますが

間違いだと思っております。

もちろん仏教である必要はありません。

ただ、畏れ敬うという気持ちは

理屈だけでは生まれないという事です。

生命に対する尊厳

というものがあるならば

それは

理屈では説明できないもの

であると私は思うわけであります。

とりとめの無い長文およみ頂き感謝します。

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ありがとうございました。

お不動さまを畏(おそ)れる” に対して2件のコメントがあります。

  1. 慈遊 より:

    はじめまして^^
    真宗に触れて、毎日を生きたい!と
    意気込むようになった者です。
    確かに、無宗教の人ってあまり
    畏敬の念を持っていないような気がします。
    これからもブログ読ませて頂きますね♪

  2. ryo_zen より:

    おおおぉぉ!!
    慈遊さん。こんにちは。
    コメント頂きありがとやんす。
    素直にとても嬉しいです。
    また、お読み頂ける様がんばります。

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